ゴミ屋敷の話

友人といろいろと話している中で、「なぜゴミ屋敷ができるのだろうね?」という話になりました。ちょっとその話が個人的に面白かったので、それについて書いてみようと思います。

社会問題になっているゴミ屋敷。たまに街中を歩いていると、敷地内に所狭しとゴミが積み上げられた異様な一角を目にすることがあります。臭いし、見栄えは悪いし、こんなにゴミを積み上げて何をしたいんだろう?と思ってしまいます。でもたいていの場合、家主は大事そうに「ゴミじゃない!」と主張します。近隣の住民は「何を考えているんだろう?」と首を傾げるのが一般的な構図です。(たぶん)

ここで考えたいのがゴミという言葉の定義。ゴミとはおそらく不要品とか無価値なモノといった意味で使われていることが多いと思います。そう考えると、実際に目の前にあるモノをゴミと定義するかどうかは人によって違うのではないでしょうか。

ゴミと定義する範囲が最も広いのがミニマリストの方々だと思います。私もややミニマリスト志向の人間ですが、先々1年間で使わないとはっきり言えるものはきっぱりと捨てるという1年ルールを実践していました。今はやや迷いが生じるようになりましたが(老化か!?笑)、今でも基本的にこのルールでゴミとして捨てるか否かを判断しています。なのであまりモノも増えずに、快適な居住空間が作れているなと思います。

一方、自分の身近に衝動買いの癖がある方が居て、この方の家はモノで溢れかえっています。ほとんど使わないだろうと思うようなものも大事そうに積み上げられていて、そのうち年を取ったらゴミ屋敷になるのではないかと思ったりします。私からすると、先々1年間で使わないものはゴミとみなすので、ほとんどのモノはゴミなのですが、せっかく買ったものなので捨てようとしません。そもそも買わなきゃいいのにと思うのですが、買うこと自体が気分転換というか快楽のようで、衝動買いはやめられないようです。

上記の二者でも既にゴミの定義が異なっているように思えますので、ゴミ屋敷の主もおそらくゴミの定義が異なるのでしょう。身近にゴミ屋敷の主はいないので、ここは完全な想像ですが、ゴミ屋敷の主はモノへの執着心が強いというか、モノに対する憧憬が強いのではないかと思いますね。モノに囲まれているだけで安心感が得られるのかもしれません。それ自体は何ら自然な感情なので、囲まれているモノが一般人が考えるゴミの定義にあてはまるのであればゴミ屋敷になるし、ゴミの定義にあてはまらないのであればモノが多い家、あるいはキラキラと高価なモノに囲まれていれば豪華な家と呼べるのかもしれません。

ゴミ屋敷か、モノが多い家か、豪華な家か。根は同じなのにこれを分ける要因はおそらくその人の経済状況でしょう。この世の中は希少な業績を上げた人にお金が集中する仕組みですから、豪華の家があれば、その裏返しとしてゴミ屋敷も出現するはずです。そういうわけでゴミ屋敷はなくならないのだろうな、という結論のお話でした。